育休中にかんがえる。 ~私にとっての不妊治療・高齢出産~

KLC(加藤レディスクリニック)、新宿溝口クリニック(栄養療法)、セキムラ鍼灸医院にて不妊治療を経て41歳にて出産(2014年7月23日)。いま感じること、考えること、あれこれ。

この2ヶ月で全部書く!

息子が7か月になります…そして4月の認可保育園入園が決まり、育休もあと2か月…やばいでしょう。すみません。こんなブログでも、閲覧してくださる方がわずかですがいらっしゃることを考えますと、無責任な放置に心が痛くなってまいりました。

 

今、不妊治療でがんばっていらっしゃる方のことを思いますと、その方々の手を握りたくなります。ストレスが大敵であるというのに、ストレスなしでは行えないのが不妊治療です。お金もかかりますし、パートナーや職場との関係もギリギリまで追いつめられることだってあります。 

 

私は、不妊治療中、異常な検索魔になっておりました。それがよかったかどうか、必ずしもイエスとは言えないわけですが……でも、ネットで有益な情報を得たり、同じ治療を経験した方々の記録に励まされたり、癒されたりしたことが多々あります。なので、書こうと思ったんですよね。真剣に…書きます。これから!

 

 

私がKLC(加藤レディスクリニック)に転院した理由①

KLCの前に、約2年間通っていたM医院でのこと。二度目の移植が陰性に終わった後、久々に病院に行った私の前に現れたのは、それまで担当だった院長先生ではなく、新入りの勤務医の女性だった。年齢は、ほぼ私と同じか、もっと若い。

「もうすぐで39歳ですし、後がないですよね…もう、どうしたらいいのか…お金もかかりますし、ちょっと今、治療継続に迷いを感じています」

できるだけ冷静に…自分。

「…」

「こんなことを聞くのもなんですが、私が妊娠できる可能性はどのくらいでしょうか? おわかりになる範囲で、先生の…主観でけっこうですので、何かおっしゃっていただけないでしょうか」

ダメならダメと言って !もう辛くて死ぬよ! と本当は叫びたい気分。けれど医者はカウンセラーではない。心理的なフォローは期待しないほうがいいとわかっていても、どうしても、苦しい感情が漏れ出てしまう。

「そうですね…」

 女医はふっと視線をそらして手元のカルテを見た。

「生理三日目のFSHが16です。FSHの意味は理解なさってますよね…」

「はい…」

FSHは卵巣刺激ホルモンのこと。病院に初めて来たとき、私は生理開始3日目の「FSH=7」だった。「少し高めですね。卵巣の機能が衰えていますね」と院長に言われたのを覚えている。それから通院して2年間の間に、FSHの数値は7→16へと上昇してしまっていた。なんと倍以上である…。

「FSHは、10を超えると、自然妊娠する方は稀なんですよね…」

 稀。まれ。マレ、という単語が頭を駆け巡る。

「もちろん、可能性はゼロではないんですが。でも、FSHは一度、上昇するとほとんど元には戻らないので…転院してもいいかも…」

さいご、独り言のように女医は言った。

えっ!?

いまなんつった?

転院してもいい?

てか、転院しろってこと?

あれっ?なんで?でもそれって??

私は女医の真意を、わざわざ確かめなかった。でも何となくわかる気がした。この病院ではダメなんだ。なんだ、そういうことか。

早合点で勘違いか、わからないが、この人は新入りだからこそ言えることを言ってるんだ、とその時思った。あるいは、見放されたか。

この二年、私は何をやっていたのだろうか。

家に帰り、amazonで、有名な「不妊治療はつらくない」を注文した。

不妊治療はつらくない―むだな検査や薬がふたりの赤ちゃんを遠ざける

不妊治療はつらくない―むだな検査や薬がふたりの赤ちゃんを遠ざける

 

 「不妊治療はつらくない」って、まあ、「不妊治療はつらい」ということを前提にしたタイトルですよね。まあ、その通りなのだが。

 しかしこれは、なかなか良い本です。感動的ですらある。一部、賛同できない部分もありますが(後述)。

もしもKLCに通院しようかどうか迷っている方がいたら、一読することをお勧めする。といっても、これは現在の院長でなく、先代の院長(創業者)が書いた本。だから、この本から受けた雰囲気を、現実の病院に期待すると、ちょっとガッカリするかもしれない。それから、病院に行くと初診のとき、無料で、もらえます(少なくとも2012年の時点ではそうでした。よって、私の手元にこの本は2冊あります)

参考:FSH(卵胞刺激ホルモン)-基準値・正常値のまとめ

 

 

息子が2ヶ月に。

きょうで、息子が2ヶ月と1日となった。

生まれたのは7月23日1時7分。出産時あまりに「痛い」そしてその後、新生児への授乳で極度に「眠い」という体験を経たためか、産前の記憶がもうろうとしている。

初めて、誰も読まないブログを書いていたことを思い出した。というか、妊娠中、忙しくて、まったく書けていなかった。

本来は、不妊治療の情報公開を行うためのブログだったのだが、どうしよう。

いま、私は育児休暇中。忙しいけど、書きたい。書かないと忘れてしまう…。さいごのチャンス。

育児は仕事よりキツイという人もいるが、個人的には私は仕事のほうがきつかったなあと思う。少なくとも今の時点では。つまり「頭がひま」。アラフォー身体的には、慣れない育児のほうがきっついwwのだが、「個人的に望んだことをしている」という意識が明確であるために、喜びのほうが上回る。

ただし、これ、たまたま子どもが今のところ健康で、夫や周囲も育児に協力的だからであって、その条件が少しでも変われば、育児ノイローゼというものに誰しも容易くなるだろうな、という想像もできる。だって新生児の母親に休みがないんだもんな。お昼休みも土曜日も日曜日もない。マジメ(?)にやってたらトイレにも行けず、お風呂にも入れない。ごはんも食べられない。

とりあえず、子どもが泣いていても「お母さん、○○するから待っててね!」と叫び、自分の生理的欲望を優先することにした。正直、最初の1か月は、トイレにあまり行けなかったので、膀胱炎になりかけたのだった…。

 

 

やっと体調が安定してきました

いやー、いやー、いやー、15週頃「安定期に入ったのかな?」とほっとしたのもつかの間、一日に2、3度おなかが張り出した。

 

とくに夜明け、目が覚めるほどおなかが痛い。まるで生理痛のような痛みで、おなかをさわると、ぽっこりとゴムまりのように子宮がかたくなって浮き上がっているのがわかる。これってやばくない?まじ!?けれど出血はない。検索すると、出血がない場合、基本的には赤ちゃんに問題のない場合が多いらしい。妊娠後期になると自然と張る回数が多くなるそうだが、まだ15週だ。

結局、不安な場合、病院で一応見てもらうしかない。「泣きそうになって病院(大学病院)に電話してみると「まずは様子を見てですね、もし痛みがおさまらなかったり、出血したら受診してください」と言われる。まあそう言われるとは思っていたので、「はい…」と行ったものの、半休を取り、病院に行ったのだった。

結果は、心拍の確認ができて子宮頸管も短くなっていない…問題なさそうということ。それはよかったのだが「原因はなんですか?」と聞いたら「人によってさまざまですが、疲労やストレスでは…」とのこと。「痛くなったらとにかく休んでください」「それしか対処方法がないですから…」「そんな簡単に仕事休めないです…」と思わず空中に視線を泳がせてしまった。医者は一瞬、黙ったが、「それでは、職場への連絡書を書きましょう。病名なら、切迫流産ということに。自宅安静2週間にしますか、4週間にしますか?」

「えっ!?」

自宅安静にしゅうかん…よんしゅうかん…

私の頭に浮かんだのは「この時期にそんなに仕事を休めない!!!! 私は社会的せーめーをうしなう…」ということだった。

医師はとても親切だった。赤ちゃんには今のところ異常がないのだが、私の表情が問題だと思ったらしい。職場ですごく追い詰められていると考えたらしい。

実際、多少追い詰められた気持ちになっていたのは確かではあった。職場に妊娠報告そのものは済ませていたが、少し疲れたかな、というときも休まず我慢していた(というか、いつもに比べてすぐに疲れるのだ)。「妊婦だからといって甘えてはいけない、他人には関係のないことなのだから」と自分に言い聞かせていた…

産休を取る、というのは「女性の(労働者の)権利」だと頭ではわかっているものの、感情的にはどこか疾しく、申し訳ないような気持がする。会社に対して…ではなく、職場の上司や同僚に対してだ。確実に、仕事面では迷惑をかけるから。不妊の期間が長かったから、何より「産・育休を取りたくてもなかなか授からず働いている」女性もいるってわかるから…自分は子どもを授かっただけでも幸運だから…

 

病院からの帰り、自分はずいぶん屈折した感情を抱えていて面倒くせえな、と思った。というのも別に職場から明確なプレッシャーを与えてられているわけじゃないのだ。一人芝居…

 

結局、連絡書は会社に提出しなかったが、残業はやめた(ぎりぎり仕事がまわる範囲で)。

 

今日は18週と3日だが、痛みはなくなり、体調は安定している。要するになんだ、やっぱりストレスだったみたい。ストレス大敵。

 

 

 

もうすぐ15週。

もうすぐ15週。だんだんとおなかが大きくなって、胸がまるく張ってくる。人生ではじめて「きょにゅう」(!)になったような気分。ちょっとだけなんだかうれしい気がしたのだが、下着類を買い替えなければならないと知って焦る。お金がいくらあっても足りない…。仕事帰り、暗い道をひとりで歩いているとき、ふっと思った。「もう今の私はひとりじゃなくてふたりなんだな」。

でも、いつかは子どもも私を離れていくんだ。私自身が両親を離れていったように。そう考えだして早くもさみしくなる。しかも私は高齢出産だから、子どもと一緒に過ごせる時間はほかのひとより少ないだろう。などと、自分の老後や臨終のようすまで妄想しながら歩いてたら、家についた。

最初の病院(不妊治療クリニック)の話

最初の病院も最後の病院も、ネットで探した。ネットさまさまである。

口コミと、通勤ルートに近くて通いやすい…と2つの条件を掛け合わせて決めたのが池袋のMレディースクリニックだった。院長先生はベテラン。サブの女性医師は親切。受付のひとや看護婦さんも優しい。待ち時間もそんなには長くない(あくまで2010-2012年前後の状況、私個人の感想です)。

不妊治療においては、「妊娠できた病院がよい病院」なので、その人にとってのよい病院が他のひとにとって「よい病院」とは限らない。逆も真なり。

私が不満だったのは、主治医の院長先生が、1年にわたるタイミング療法で結果が出なくても積極的にステップアップをすすめてくれなかったことだ。けれど、後から考えればそれも当然なのかな、と思う。肉体的にもまた金銭的にも最も負担が重いのが体外受精だ。初回のトライで約50万(!)はかかる。それでいて1回ごとの妊娠率はけっして高くない。年齢にもよるが、大体2~3割と考えていいと思う。患者が自発的に希望するという形をとらなければ、医者としてもやりにくいといったところだろう。

私はここで初回のホルモン検査、フーナー検査、卵管造影等々…にタイミング法1年、人工授精1回、アンタゴニスト法(排卵誘発剤の連続注射あり)による採卵と体外受精を2回行った。体外受精に関しては費用面も含めて、文字通り清水の舞台から飛び降りる気持ちで行ったが、新鮮胚での1回目も、凍結胚での2回目も、陰性だった。

その後、私はあるできごとから新宿のKLC(加藤レディスクリニック)への転院を決意した。

 

 

35歳の誕生日を迎えるあたりから…

35歳の誕生日を迎える寸前あたりから、なぜか眠れない夜(笑)を迎えることが多くなってしまった。当時、理由はよくわからなかった。

仕事はそれなりにうまくいっている。

夫婦仲?に大きな問題はない。

趣味(ヲタク活動)も楽しい。

でも…なんだかちょっと空しい、こんなはずじゃなかった、というふしぎな気持。客観的に見れば不幸と言えないはずなのだが、自分のなかに確実に今の状況に不満な自分がいて、でもどうしたらそれが解消されるのかわからずに、夜明けまで考えながら、庭に咲く白い花を凝視していた。

一番認めたくなかったのは、世間的には小学生の母でもおかしくない年齢の自分に「子どもがいないせい」、と考えることだった。

出産は年齢でなく女性の自由意志で行われるものだ…「産むかどうか」「いつ産むか」は私が自分自身で決められるはず。確かに生物学的年齢の限界ってあるけれど、でもまだ間に合うはず。そのころ友達の赤ちゃんを見て「カワイイ!」とはしゃぎながら、よく思っていた。「私もいつか欲しい」けど「今じゃない」「まだもう少し先に…」。

 世の中の常識(多少古い)からいえば、35歳が出産のひとつのタイムリミットだ。だから「いつか」っていつのつもりですか…。と過去の自分に突っ込みたくはなるが、これも安全性バイアスなのだろうか。さすがに40歳頃までには、とは思っていたが、それまで自分だけは大丈夫、と信じていたのだろうか。

働く女性でかつての私のように「出産の希望はあるが、なんとなく遅らせている」30代女性はけっして少なくはないと思う。ひとつ私たちなりの特殊な背景があるとすれば、夫が研究職志望だったので、就職が遅れて経済的不安があったことだ(結婚した当時、彼は博士課程に在籍し、その後30過ぎて就職し、さらにその後、転職した)。

やっぱり子ども欲しいな~、と切実になるときもあれば、このまま夫婦二人で暮らしていけば、さほどお金の心配もしなくていいからラクだな、と考えることもあった。矛盾だらけの精神生活だった。

けれど、ひとつ確かに言えることがある。私は「選べる」と思っていた。

子どものいる人生も、子どものいない人生も、私の気持ちや決断ひとつでまだまだ決められるものだと思っていた。「子どもを望んでも得られない人生」の可能性だってあるということ、知識としては知ってたけれど、自分にもあるんだ、というふうには思い至らなかった。自分を過信していた。自分は健康体なのだから、本気になれば「すぐつくれる」、と。

年齢のことをさておいても、今なら「子どもをつくれる」なんて、そもそも傲慢な物言い、発想だろうかと思う。

子どもはたとえ医療を介在したとしても「授かる」ものだ。

不妊治療にかかわっているひとは、当事者も周辺も誰も「子どもをつくる」なんて言わない。何年もたってから、そのことに気付いて、恥ずかしくて、情けなくて、穴があれば入りたくて、できればそこから永遠に出てきたくないという気持になったりもした。

「ああ、自分はこのままだと一歩も前に進めないな…」そう思って不妊治療専門クリニックを訪れたころ、36歳になっていた。